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今月の知恵<This month's Wisdom>

フリースクールのススメ――すべての子どもが幸せに学べる場とは? 第7回

知求図書館 4月22日号WEB雑誌「今月の知恵」コラム

第6回で終わるつもりが、7回まで来てしまいました。思うままに書き連ねてきたコラムほど、まとめるのが難しいものです・・・・・・。というのも、皆さんにお伝えしたいことは、おおかた書いてきたつもりなのです。それでも、お伝えできていない内容があるからこその第7回。少しでもお役に立つ話ができればと思います。

■ フリースクールでの衝撃を、育児で生かしたこと
 第6回では、遊びを通して豊かな発想や思考力を高める保育園、大きな家族のような山の小学校をご紹介しました。一方で、フリースクールで学んだ理念を、私なりに育児に生かした事柄もあります。

 まずは何といっても、我が子の勉強を管理しないこと、強制しないことです。私自身も母から言われた経験はありませんが、私も「勉強しなさい」「宿題しなさい」「学校を休んじゃダメ」などは我が子に一度も言いませんでした。
 それでもなぜか、我が子は2人とも体調不良以外の理由で欠席しませんでした。山の小学校を卒業後は町なかのマンモス中学校に通っていましたから、それなりに嫌な出来事などあっただろうと思います。学校での雰囲気から「行くべきところ」と感じていたのかもしれません。あるいは、2人とも部活動に打ち込んでいたために、休みたくなかったのかもしれません。勉強は特に好きではなかったようですが、彼らなりに取り組んでいました(勉強好きの私は、家族から「変わってる」と思われています)。
 冗談かどうか、2人とも高校時代に、「もう学校を辞めたい!」と何度か口にしました。そんな時の夫と私の返答は決まって、「ふーん、辞めたら?」。さらには「辞めて何する? お父さん(夫は自営業)のところで働いてみる!?」などと楽しそうに聞くからか、2人とも「辞めないから!」となるのでした。
 夫としては、彼自身が高校を中退して仕事を始めているので、「勉強したくないなら働けばいい」とどちらかといえば常に大歓迎(辞めたい理由が「勉強したくないから」とは限りませんが)。私としては、いつでも他の選択肢を用意する心づもりをしていました。日本には、そして世界には、いろんな面白い経験をできる場所がたくさんあります。そういった経験を我が子にあまりさせられず、ちょっぴり残念な気持ちもあります(部活動に打ち込むと忙しいのです・・・・・・)。
 それでも2人が、気の合う友人たちと幸運にも巡り会えて、部活動という思い切り打ち込めるものがあって良かった、彼ら自身が選んだ道を進めて良かったと思います(娘は専門学校を数年前に卒業、息子はこの春から大学院生です)。

次に生かした事柄といえば、子どもの意見や考え方を、1人の人間として尊重するよう心掛けたこと。「心掛けた」がミソです。私も人間ですから、いつもいつも神様のように子どもに寄り添えたわけではありません。
 また、「尊重する」とは「何でも子どもの希望をかなえる」という行為でもありません。「大人」「親」という権力を振りかざして考えを押し付けるのではなく、「会話して、互いの考えを伝え、思いに寄り添い、一緒に考える」ということではないかと思います。
 繰り返しになりますが、いつもいつも完璧に実践できたわけではありません。我が子が小学校低学年の時、香川のフリースクールにお邪魔しました。1日目は昼ごろに到着し、スクールの子どもたちと一緒に、科学館のような施設に連れていってもらいました。
2日目、朝は大人も子どもも参加するミーティングで1日が始まります。「今日は何をする?」というテーマに、我が子は静かに話し合いを見守っていました。「何したい?」と聞かれても戸惑い顔。しかし「自分がやりたいことを言っていいのだ」と分かったとたん、「昨日のところに行きたい!」と、はじけるような笑顔で言ったのです。
その様子に、私はショックを受けました。「我が子のために」といろんなところに連れていき、様々な体験をさせてきたけれど、彼らが本当に行きたい場所ややりたいことをちゃんと聞いてきただろうか。「私が2人を連れていきたい場所」にすぎなかったのではないか。最初の戸惑い顔は、そんな私の押し付けの象徴ではないか。この時の経験から、より一層「子どもの思いを尊重する」ことを意識するようになりました。
しかし言うのは簡単ですが、実践するのは本当に難しいものです・・・・・・。子どもが中学・高校と成長しても、「こんな時はこうしたほうがいいよ」「こんな面白いイベントがあるよ」などなど、子どもよりも少しばかり長く生きた経験がある分、「これはきっと子どものためになる」と先回りしてアドバイスしたくなります。
私の母も同じで、「良かれ」と思って私にアレコレ言ってしまうタイプです。そんな母が以前、「どんなにいいものであっても、良かれと思っても、子どもの気が進まなければ押し付けにすぎない」と自戒の念を記していて、私もハッとしました。子どもが成人した今でも、ついアレコレ先回りしたくなりますが、香川のフリースクールでのショックと、母の言葉を思い出し、情報として伝えるだけでサッと引き下がるようこらえています。
 
 他には、表現活動を大切にしました。「普通」が分からずつらい思いをした私としては、歌ったりピアノを弾いたり、詩を書いたり、ミュージカル舞台に立ったり、絵を描いたり、文章を書いたり(今ではそれが翻訳につながっています)と、様々な表現方法を持っていたことにかなり救われました。
 言葉でも言葉でなくても、自分の内を表現し解放すること、何か創造することは、人生を豊かにしてくれます。自分自身を見つめるうえで、大切な手段でもあります。私が見てきたフリースクールの多くでも、表現活動を大切にされていました。
 我が子に対しても、自分をいろんな形で表現できるということを知ってもらおうと、小さな頃から意識していました。結果、娘はファッション、息子は建築設計と、どちらもクリエーティブな道を選んでいます。親の意識というのは大きく影響するのだなと実感します。

ついでながらもう1つ心掛けたのは、「どんな自分であっても愛されている」という無条件の愛を感じさせることです。これについては、肌のぬくもりが一番ではないかと考え、小学校卒業くらいまでハグを続けました。高校留学時、言語や人種の壁に心細い思いをしましたが、ハグを通してグッと相手を身近に感じ、安心感を得られたためです。残念ながら思春期を過ぎてからは、さすがに日本でハグは続けられませんでしたが、ちょっとした触れ合いは意識していました。子どものためと言いつつ、私自身もとても癒やされる習慣でした。

 フリースクールの良さを知っていながら、結果的に我が子はずっと日本の公立学校に通い続けました。それが本人たちの意思であったことが一番の理由です。それでも、身近な、かつ、どうしたって影響力のある親として、勉強を管理しない姿勢を貫くあり方が大切だと思われましたし、我が子2人の意識にも何かしら根づいてくれたのではないかと思います。フリースクール(特にデモクラティックスクール)の理念は、スクールとして用意しなくても、大人1人ひとりが実践を意識するだけで、たくさんの子どもたちが幸せに学べるのではないでしょうか。

■ 他にもある! いろんな学びの場
 さて「学びの場」に話を戻しましょう。私の学校選びに関して、母もいろいろと考えていたようです。私自身が子ども時代に見学に行った場所を、いくつかご紹介しましょう。

 小学校高学年の時には、埼玉にある自由の森学園の公開授業に行きました。個々の感性を大切にする教育理念を持ち、子どもたちの自立と自由を追求する学校です(注3)。生徒たちのあふれんばかりのエネルギーに圧倒されたのを、よく覚えています。母の友人の娘さんは実際に通われましたが、合わなかったようです。一方で、この学校に救われ、のびのびと通う生徒がいるのも事実。それぞれの子にどんな環境が合うのかは一概には言えませんし、通ってみなければ分からないことも多々あるでしょう。タイミングもありますよね。私も高校時代に訪れていたなら、同校に入りたいと思ったかもしれません。

 中学校時代には、スペインのベンポスタ共和国という自治組織を見に行きました。1990年に映画『ベンポスタ・子ども共和国』が公開されて話題になった共同体です(1993年公開の『スペインからの手紙 ベンポスタの子どもたち』でも取り上げられています)(注1)。
 共和国内には学校、工場、サーカステント、教会、宿舎、農場、市役所などがあり、世界から集まった子どもたちがサーカス活動をしながら主体的に組織を運営し、生活を共にします(注2)。役所には、子どもたちが座って物事を決める議長席などもあります。見学者としては議長席に座って写真撮影をしたくなるところを、「どの席も単なる代表であり、特別なものではない」と説明されたのが心に残っています。

 私自身、我が子の学校選びでは、米国のフリースクール以外にシュタイナー学校も見に行きました。「知的な経路を通じた学習は教育のほんの一部にすぎないと考え、感情や意志に働きかける総合芸術としての教育を構想」(注4)したルドルフ・シュタイナーの哲学に基づいた学校です。印象的だったのは、勉強を「単なる情報の記憶」にしない考え方です。例えば「竹」という漢字を習うのであれば、実際に竹を見て、その絵を描いて、そのうえで漢字を学ぶということでした。

 育児を通して知り合ったなかには、インターナショナルスクールやフリースクールへの入学を決める友人もいました(ホームスクーリングを試みる友人も)。どのスクールや団体も、それぞれにすばらしい理念を持って、子どもを主役とした場を運営されています。あらゆる個性の子ども全員が幸せに、個々の才能を伸ばせる場が一律に存在するとも思えません。その子に合った場を選べる環境や、いろんな場があることが大切なのではないかと思います。

■ 日本の「普通」の学校を考える
 さて、脱線しつつも、コラムを通していろんなスクールや学びの場をご紹介してきましたが、日本の普通の学校では子どもたちは幸せに学べないのでしょうか。

 私は、日本の学校を頭ごなしに否定するつもりはありません。カリキュラムが決まっているからこそ、幅広い知識を身につけられます。私の場合、日本の高校教育をほぼ受けていないので、自分自身の日本における一般教養の低さを感じる面があります。ただ、フリースクールをきっかけに自分で学ぶ楽しさを知ったため、大人になってからも様々なことを学ぶ意欲は十二分にある、と自信を持って言えますが。
 また、教育の姿勢も変わってきています。うまく機能しているかは別として、考える力に重点をおいたり、アクティブラーニングを実践したりと、子ども1人ひとりのやる気を引き出し、考えさせ、体験させることに力を入れるよう変化してきています。大勢の現職の教員、そして教職を目指す大勢の若者も、生徒の興味を引き出す授業をしたいと願っています。
 学習面以外でも、子どもに寄り添う傾聴を重視し、保健室登校や別室登校など柔軟に対応し、フリースクールの出席の振り替えも認めるなど、個々の気持ちや状態に寄り添うように変化しています。授業内容や登校方法など、様々な学び方が可能な学校(特に高等学校)もたくさんできています。学校教育も多様性を受け入れる時代になりつつあります。

 地域の学校が救いになる子どもたちもいます。比較的平和で落ち着いていると言われる日本でも、いろんな境遇の子どもがいます。親が刑務所に入ったために施設から学校に通う子。親が恋人宅に入り浸り、小学生の時から妹・弟のオムツ替えなど家事をすべてこなさなければならない子。親の再婚相手から性的虐待を受け、施設に逃げ込んで、親に見つからないよう暮らす子。親から受けられない愛情を試すかのように、教員に悪態をつく子。給食を食べに学校に来る子(給食が好きだからではなく、生きるために)。
 これらは、私が勤務した学校に実際にいた子どもたちです。教室に入れなくても、教員に悪態をついても、彼・彼女たちにとって学校は、自分の存在を認めてもらえて気にかけてもらえる貴重な場所でした。地域にある、誰でも通える公の学校も、なくてはならない場です。

 では何が子どもを苦しめるのでしょう。大勢の子どもたちが小さな教室に詰め込まれた一斉教育、教材研究や授業準備をする時間もない教員の激務、教員不足という問題もあるでしょうが、やはり子どもと保護者を一番苦しめるのは学歴重視の社会ではないかと思います(本コラム第2回でも心療内科の先生が語っておられました)。
 学歴重視の風潮は、受験戦争の激化につながり、学校の授業や指導方法も受験を念頭に置いたものになってしまいます。子どもの好奇心を追求するような、のびのびとした学びにつながるはずがありません。
 学歴を重視するのは、大手の会社に入るため、立派な(?)職業に就くためでしょうか。専門的な職業を目指すための専門的な勉強は必要でしょうが、特に夢もなく「とりあえず」大手の会社に入ったとして、それが幸せな人生かどうかは疑問です。本人の興味や才能に合っているかも分かりません。そして、大手の会社だけで社会が成り立つのではありません。
 娘は高校時代、ファッションを学びたくて専門学校への入学を決めました。そのことを担任に伝えると、大学受験を勧めていた担任は、「取り返しがつかなくなるが、本当にいいのか」と言ったそうです。娘が「何を学びたいか」を考えて決めた進路です。万一やりたいことが途中で変わって、その夢のために大学で学びたいと思うなら、何歳になっても大学に入ればいいでしょう。娘にはそう言って、「取り返しがつかなくなるなんてことはない」と伝えました。
 この担任の先生の逸話は、もう1つあります。「センター試験(現共通テスト)は高校での勉強の集大成だから」と学校から言われたらしく、専門学校入学が決まっていた娘も受験しました。
 そうしてセンター試験後、なぜか授業中に担任に呼び出されたそうです。その呼び出しの内容は、「今からでも〇〇の公立大学を受けられるぞ」というもの……。すでに専門学校の授業料も支払っているのに、です。
 もちろん、先生としては娘を思ってのことだったのかもしれません。それでもこの一連の出来事に、日本の教育のあり方が凝縮されているような気がします。いい学校に行かなければならない、そうしないと自分には価値がない、という考えにつながってしまわないでしょうか。

■ すべての子どもが幸せに学べる場とは?
 やはり長々と語ってしまっていますが、最後に、副題でもある「すべての子どもが幸せに学べる場とは?」について改めて考えたいと思います。

 小さな子どもの様子を見ていると、人は本来、好奇心旺盛で、新しい物事を知り、自分の力で考えることに喜びを感じる生き物だと思うのです。フリースクール的学びの良さは、興味を持った物事を、心ゆくまで探求できること。それについて誰からも勝手な評価を下されないこと。とことん、子どもが主人公の学びです。
 一方で通常の学校は、用意された物事を学び、単元や時間で強制的に切られ、分からないことが残っていても無理やり評価されてしまいます。自分のためのものだと感じられず、勉強嫌いになる子がいて当然でしょう。
 フリースクールの理念を振り返ると、子どもたちが安心してのびのびと学ぶには、①個人として尊重されること、②好奇心を持って学べること、③学びたいことを学べること、④自分で考え選択できることが必要なのだと思います。
 子どもたちはそれぞれに、いろんな性格や個性、いろんな才能を持っています。合う友達、合わない友達、合う学校、合わない学校、得意な教科、興味のある教科、苦手な教科があって当たり前です。何かしら学びの難しさを抱えている場合もあるでしょう(翻訳という仕事をしていますが、私も「読む」作業にはかなりの集中力が必要です)。どの学校も、少なくとも、子どもや大人が個々の個性を尊重し合えることが重要です。ですが何より大切なのは、子どもが自分で自分の居場所や学ぶ場所を選べること、かもしれません。
 そのためには、様々な学びの場が学校として国や社会から認められること、「世界は広くて、いろんな学校や、いろんな学び方があるよ」と子どもたちに知ってもらうことが大切なのではないでしょうか。

■ 付け足し・・・
 私には学校以外に友人が大勢いました。その大半が学校に行けない子どもたちです。彼らからたくさんのことを学び、救われました。いろんな物事を深く考え、問題意識を持ち、感性が豊かで敏感で、音楽などの才能を追求し、人との関わりから多くを学ぶ子たちでした。だからこそ、普通の学校には行けなかったのだと思います。
 やはり普通の学校は、息苦しい場であることが多いのでしょう。学校で気の合う友人が見つからなくても、学校以外の世界に面白い(いい意味で)人はたくさんいる。そう思います。
 SNSのある現代では、そういった意味で気の合う友人を見つけやすい社会になったのかもしれません。娘はSNSを駆使して様々な場所に出向き、大勢の人とつながり、がつがつとチャンスを開拓しているようです(もちろんSNSには怖い面もあるので気をつけてほしいですが…)。

「すべての子どもが…」という副題にしておきながら、病気などの理由で通学できない子どもたちについては知識がなく、触れられなかったことが心残りです。また、世界には国や家庭の事情で学校に通えない子どもたちも。どの子どもも、「学びたい!」という気持ちを「学ぶって楽しい! 面白い!」という気持ちに成就できる世界が実現することを、心から願います。
 また、過去のコラムからお分かりいただけると思うのですが、「フリースクール」と言っても様々です。私が特に強調してお伝えしてきたのは「デモクラティックスクール」であることをご承知いただければ幸いです。

注1:映画ナタリー“ベンポスタ・子ども共和国”
https://natalie.mu/eiga/film/802342(参照2024-4-11)
松竹“【作品データベース】スペインからの手紙 ベンポスタの子どもたち
https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04389/(参照2024-4-11)
注2:山形国際ドキュメンタリー映画祭“ベンポスタ・子ども共和国”
https://www.yidff.jp/97/cat091/97c105-1.html(参照2024-4-11)
注3:自由の森学園中学校・高等学校“教育理念”
https://www.jiyunomori.ac.jp/gakuen/rinen.php(参照2024-4-11)
注4:日本シュタイナー学校協会“協会の成り立ち”
https://waldorf.jp/education/(参照2024-4-11)

■ 今回のあとがき
 休み休み、しかもとりとめもなく好き勝手に書きつづった本コラムをお読みくださり、ありがとうございました。どんな感想をお持ちになったでしょうか。ご自身の経験を何か思い出されたでしょうか。機会があれば、ぜひお聞きしたいです。
 この風変わりな経験を、いつか文章にしてみたいと、以前からぼんやりと思っていました。願えば、夢はかなうのですね。翻訳の夢もかないました(でもまだまだ大きな夢があります)。すばらしいチャンスを与えてくださった知求翻訳館関係者の皆さまに、心より感謝申し上げます。

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伊藤 史織
〈プロフィール〉
バベル翻訳大学院講師、英日出版・映像翻訳者。高等学校時代にアメリカに1年留学後、同国のフリースクールを卒業。関西外国語大学卒業後はバベル翻訳大学院に入学し、修了後にフリーランスの翻訳者として活動を開始。映像翻訳ではファンタジー系からドキュメンタリーまで幅広いジャンルの映画・映像の字幕翻訳に携わる。出版翻訳の訳書には『ウイルス、パンデミック、そして免疫』、『絵でわかる建物の歴史』などがある。