バベル翻訳学院のころ(1)

 

BあBEL グループの軌跡を辿る

この記事は、BあBELな人々を取材したものです。第1弾は、森 俊一さんが、2009年6月6日に執筆された自身のコラムを転載したものです。

プロフィール

森 俊一(もり としかず)
1956年東京生まれ。東京大学卒業。同大学院中退後、(株)日本翻訳家養成センター(現・バベル)に入社。
以後、教育事業を経て現在は翻訳事業(法務・財務・IR文書)を担当している。

私がバベルに入社したのは1983年1月6日だから、すでに25年以上前のことになる。入社の時点ではまだ学生として大学院に籍があり、指導教授のI先生に報告もしないままの就職だった。新卒と一緒に受験したが、実質は中途採用と同じだったし、すぐに働きたい気持ちが強かったので1月入社となった。当時の社名は日本翻訳家養成センターで、これは主に通信教育のブランド名として使用されていた。通学部のブランド名がバベル翻訳学院だった。

入社2ヶ月目から通学部勤務となり、3ヶ月間の試雇期間が過ぎてからもそのまま通学部に配属となった。当時のバベル翻訳学院は一般課程、専門課程からなっており、専門課程のなかに(上級)と但し書きのついた講座がいくつかあった。一般課程は翻訳の基礎を教える講座で、特にジャンルの区分はないが、専門課程の講座には「英米文学」「現代アメリカ文学」「一般教養書」など、扱うテキストのジャンル区分による名称がついていた。

一般課程は、朱牟田夏雄先生を筆頭に、「翻訳英文法」の著者である安西徹雄先生、当時山梨大学で教鞭をとっていらした沢登春仁先生(フェリス女学院大学名誉教授)など、著名な大学の先生がたが中心だった。専門課程の文芸系はプロ翻訳家が中心で、小鷹信光高橋泰邦常盤新平長島良三中田耕治、広瀬順弘といった錚々たる先生がたが顔を揃えていた。ノンフィクション系は別宮貞徳柳父章の両先生が、また洋画吹替の講座は鈴木導先生が担当なさっていた。

こうした先生がたについては、その著書や雑誌『翻訳の世界』を通じて多少の予備知識は得ていたが、間近で話をかわすとなるとまた別物で、毎日が新鮮であり、緊張の連続であった。とりわけ、朱牟田先生は『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』の名訳などで知られる翻訳界の神様のような存在。当時は、帝京大で教鞭をとるかたわら、ELEC(財団法人英語教育協議会)の理事長かなにかを務めていらしたように思う。バベル翻訳学院では、一般課程の前期15回の授業のうち、終わりの数回の翻訳演習を担当なさっていた。

入社して数ヶ月が経ったころ、授業の打合せのためにELECの理事長室(かどうか正確には覚えていないが)で先生にお目にかかった。椅子に深々と腰をおろした先生は、背丈はそれほどでもなかったのだろうが、恰幅のよい、イギリス仕立ての背広がよく似合いそうなかたであった。その時は挨拶程度であったが、数日後に先生から電話があり、教材の用意ができたのでお渡ししたい、ついては明日の昼、12時半にランチョンの2階でお待ちしているとのことであった。ランチョンというのは神保町の老舗ビヤホール(というか洋食店)で、いまもある。英文学者の故・吉田健一が愛好した店としても有名で、ご存じのかたも多いと思う。

翌日、ランチョンの2階に行くと先生はすでにいらしていて、ちょうどランチを終えたところのようだった(そういう時間を指定なさった、ということだろう)。私が席につくと、傍らの椅子の上に置いてあった風呂敷包みを取り上げ、数回分の教材を私に見せながら、1回目の授業までの段取りを丁寧に説明してくださった。テーブルの上には、ランチビールというのだろうか、小ぶりのグラスに入ったビールが置かれていた。

私は高校時代、朱牟田先生の書いた英文読解の参考書を読んで英語に親しむようになった者だが、といってその後は英文学の熱心な読み手になることもなかったので、10年後にその著者とこういう形で話をすることになろうとは、思いもかけぬことだった。

バベル翻訳学院の事務室でお会いする朱牟田先生は、白髪のほうが多くなった髪を短く刈り揃えた、実直な感じのする老人だった。大御所でありながら手抜きをすることなく、受講生から事前に提出された訳文に毎回きちんと添削して授業に臨んでいらした。

朱牟田先生はその翌年も、そのまた翌年も一般課程の翻訳演習を担当されたが、たしか80歳を迎える年に引退されたと記憶している。鬼籍に入られたのはその翌年の秋で、享年81だった。添削済みの原稿を入れた風呂敷包みを小脇に抱えて教室に向かっていく先生の後ろ姿を、いまもときどき思い出す。


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