反人種差別、暴動に想う

バベル翻訳専門職大学院(USA) 副学長 堀田都茂樹

翻訳的ものの考え方で、世界が変わる世界が一つの言葉をとり戻すとき

今回は、今、コロナ危機の一方で噴出する‘Black Iives Matter’、反人種差別問題に視野を当てて、世界各地の読者の皆様からのご意見を、8月号の2回(7日、22日)にわたってお聞きしたいと考えています。

この問題を考えるには、問題の表層から見ていくと、見誤り、本質的な理解には至らないように思います。

そこで、初めに、時々ご紹介させていただく18分のTEDのスピーチを聴いてください。
題して、‘How great leaders inspire action’

How great leaders inspire action

このWhyからはじまる行動パターンは決して経営の世界に限りません。では、翻訳者はなぜ、翻訳をするのか、ここで改めて考えてみましょう。翻訳者はどんなWhyに衝き動かされているのでしょうか。

バベルと長いお付き合いの方はバベルの塔の神話をご存知の方は多いことでしょう。神は天を突くようなバベルの塔を立てようとする人間の傲慢を諫めるためにお互いの言語を通じなくして、塔の建設を阻止、崩壊させたと言います。

しかし、バベルの塔の神話の真のメッセージは必ずしも人間の傲慢を諌めることだけではないというところから出発したいと思います。

それは、20年以上前にオーストラリアの書店で見かけた子供向けの聖書に書かれた解釈でした。

神は、人々がひとところに止まらず、その智恵を世界に広め、繁栄へ導くようにと願い、かれらに別々のことばを与え、世界中に散らしたという解釈でした。すると、かれらはそれぞれの土地、風土で独自の言葉と文化を育み、多様な言語と多様な文化で織りなす地球文化を生み出したのです。

しかし、もともとは一つだったことば(文化)ゆえに翻訳も可能であるし、弁証法的に発展した文化は、常に一定のサイクルで原点回帰をしているとすれば、ただ視点を変えるだけで、結局、同じことを言っていることが分かることになるでしょう。

しかし、人間のエゴの働きと言えるでしょうか、バベルの塔のころからの傲慢さゆえに、自分が、自文化が一番と考えることから抜けきれないでいると、もともと一つであるものでさえ見失い、理解できず、伝える(翻訳)ことさえできなくなってしまうのかもしれません。

翻訳の精神とは、自らの文化を相対化し、相手文化を尊重し、自立した二つの文化を等距離に置き、等価変換する試みであるとすると、この過程こそ、人間はもともと一つであったことを思い出す試みなのかもしれません。

「世界が一つの言葉を取り戻す」、それは決してバベルの塔以前のように、同じ言語を話すことではないでしょう。それは、別々の言語をもち、文化を背負ったとしても、相手の文化を尊重し、その基底にある自文化を相対化し理解しようとする ‘翻訳者意識’ を取り戻すことなのではないでしょうか。
バベルの塔の神話はそんなことまでも示唆しているように思えます。

また、翻訳の本質が見えてくるこんな話もあります。

あるテレビ番組で、日本料理の達人がルソン島に行き、現地の子供の1歳のお祝いの膳を用意するという番組を観ました。おそらく番組主催者の意図は世界遺産となった日本料理が、ガスも、電気コンロもない孤島で通用するかを面白おかしく見せようとしていたのでしょう。

この日本料理の達人は自らの得意技で様々な料理を、現地の限られた食材を使い、事前に現地の人々に味見をしてもらいながら試行錯誤で料理を完成させいくというストーリーでした。そして、最後は大絶賛を得られたという番組でした。

しかし、かれはその間、自ら良しとする自信作で味見をしてもらうわけですが、一様にまずいと言われてしまいます。しかし、何度も現地のひとの味覚を確認しながら、日本料理を‘翻訳’していくのでした。そこにはもう自文化の押し付けもなければ、ひとりよがりの自信も見られません。ただ、現地のひとの味覚に合うよう、これが日本料理という既成概念を捨て、日本料理を相対化し、自らのものさしを変えていったのです。

世界には7,000を越える言語、更にそれをはるかに越える文化が有るなか、翻訳者が、翻訳できるとはどういうことなのでしょうか。

翻訳ができるということは、もともと一つだからであり、

翻訳ができるということは、具象と抽象の梯子を上がり下がりできるからであり、

翻訳ができるということは、自己を相対化できるからでしょう。

世の中には様々な価値観があり、お互いを翻訳しえないと考えている方が多いのではないのではないでしょうか。

しかし、誰しも翻訳者であると考えてみましょう。‘翻訳者’という役割が与えられた時点で、自らの言語、文化を相対化する必要があります。翻訳する相手の文化を尊重し、自国の文化を相対化し、相手の国の人々がわかるよう再表現をする。

「翻訳とは、お互いの違いは表層的なものであり、もともとは一つであることに気づき、お互いを認め、尊重し合う行為である」と考えられるでしょう。

とすると、現在、米国を中心に暴発している、反人種差別、暴動を本質から考える一つの視点になるのではないでしょうか。

多文化共生、多言語共生に向かう宇宙で、 ‘翻訳者という生き方’ も再考する機会となれば幸いです。